オーストラリアのニューサウスウェールズ州で、2011年に警察が白骨化したナタリー・ウッドさんの遺体を彼女の自宅で発見しました。
彼女が生前に付近に住んでいたというロビン・グレゴリーさん。ナタリーさんが家の玄関あたりで座ってくつろいでいるのをよく見かけたといいます。ナタリーさんは近所の人ともよく挨拶をしていて、ロビンさんは、ナタリーさんから「家族や親せきがこの家から出てほしいと言っていて、介護施設に住むよう言ってくる」「それでも私は死ぬまでこの家に住む」といった発言も聞いていたそうです。
そういった理由もあってか、比較的親しい親戚である義理の妹とも連絡をほとんどとっておらず、このような事態となってしまったとのこと。
2017年にベテラン女優のイ・ミジさんもマンションでおよそ死後2週間経ってから、一人暮らしをしていたマンションで弟に発見された、というニュースがありました。死因は腎臓ショックで、事件性はないとのこと。
また、韓国では60歳を過ぎた高齢者だけではなく、若者や中年の方々の孤独死も懸念されています。いずれも失業後であったり、定年退職後、社会から断絶されることが多いようです。
日本のようにm孤独死の清掃や遺品整理の代行サービスを提供する業者もあるようです。下の動画では、韓国における特殊清掃や孤独死した方のお部屋の整理を担う業者の様子が紹介されています。
アメリカでも「孤独」に対して関心が寄せられています。2010年と2015年には、アメリカのぶりガムヤング大学の教授Julianne Holt-Lunstad教授を含む5名が、「社会的な交流と死亡率」「死を引き起こすリスク要因としての孤独・社会からの隔離」という研究論文を発表し、日本でも話題となりました。
同研究は、孤独は肉体的・精神的な健康へ悪影響を及ぼすと言えるであろう、という結果を導いています。
YouTubeでも視聴できる「A Certain Kind Of Death(ある種の死の場合)」というドキュメンタリーでは、身寄りの無い遺体がどのように埋葬されるかを追っています。
YourAnjlという方は、コメント欄で自身の友人のエピソードを紹介しています。
「あまり裕福ではなかったぼくの友人も、資産を持たずに亡くなったんだ。そして彼の家族は彼のために火葬とかをしたくなかったようだ。だから、ぼくと仲間たちで彼の遺灰を、ハナミズキの木の下に撒いてあげた。彼のお気に入りの木だったからね、
彼は誰からも見向きもされなかったり、気にかけてもらえなかったわけじゃない。彼は一人じゃなかったんだ。」
イギリスでは、2018年メイ政権下で「孤独担当大臣(Minister for Loneliness)」にトレイシー・クラウチさんが任命されました。人々の孤独を解決する目的で、イギリス政府に初めて設置されました。
元々、ジョー・コックスという議員が孤独を解決するためのに「孤独問題対策委員会」の設立などに取り組んでいましたが、2016年にテロリストに殺害されていまいます。その後、同委員会は組織名に彼女の名を冠し、「ジョー・コックス孤独問題対策委員会」となります。
同委員会が他の団体と協力して2017年の間に行った人々の孤独に関する調査は、イギリスでは900万人以上の人々が孤独を感じていること、65万人いる高齢者のうち週に1度も家族や友人との会話が無い人は36万人、月に1度だと20万人であること、などを明らかにしました。
クロアチアでは1924年産まれのHedviga Golikという女性は42歳の時に生存を確認されてから、それ以降人の目に触れることがなかったとのこと。
2014年にクロアチアの首都ザグレブのアパートに警官と執行官が、行政の依頼により所有者を確認するために建物へ入ったところ、テレビの前で椅子に座っている彼女の遺体を見つけたとのこと。
部屋はクモの巣などが張られていましたが、飲みかけの紅茶などはそのままでまるで時が止まっていたようだったと語っています。
アジアの国々は日本と比べるとかなり物価が安く、在タイ日本大使館によるとタイのチェンマイに在留届を提出した日本人は3042人いるとのこと。
定年後にある程度の資金をもっていれば余裕のある生活を送ることが出来ますが、高齢の方も多く、チェンマイのアパートでは70代の日本人男性が死後一週間経過した状態で発見されたことがあったそうです。
また、タイは社会保障が日本ほど整備されておらず医療費は基本的に全額自己負担となっています。移住の際は高齢者が持つ病気のリスクも考慮しないと、余裕のあるはずの資金が一気に底をついてしまうことも。
人間は社会性を必要とする動物です。しかし、ちょっとした人間関係のこじれを起こしてしまったり、単純にひとりでいることを好んだりする人がいたりと、人々が持つ社会との関係性も多様化してきているといえます。
自身で選択したのだから、孤独死してしまった人は必ずしも不幸ではないという意見もある一方、その様子を目撃した人からするとやはり「何とかしてあげられなかったのか」という気持ちを抱くのも当然のように思えます。
改めて孤独とどう向き合うか、孤独が嫌ならばどうするべきか、考えていくべき時代なのでしょう。